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夏目漱石からの年賀状

 祖父の残したアルバムを基に、ブログに記録を残しながら夏目漱石との結びつきを探して3年。その間、漱石の日記から、祖父が漱石の原稿の校正の手伝いをしていたこと。妹のうめは漱石に仲人をしてもらったこと等が分かる。一枚の年賀状から始まったなぞ解きは思わぬ方向に。
 きっかけは、祖父の書いた本の序文に東京日日新聞社から「夏目漱石の愛弟子として知られた、、、」との紹介文が寄せられていたことが始まりで、実際は愛弟子というよりも学生の頃から二十歳半ばまで漱石の援助があったことが分かる。漱石の日記の中でお金を貸した一人に祖父の名前もあり、十五歳ほど年長の漱石が亡くなるまで、妹のうめと共に恩を受けたことが推察され、祖父あての漱石からの書簡があったこともネットを通じて知った。

 今回、遺品を整理するに当たって仮想空間にだけでも品々を残しておこうと思いブログを作成。「満州で幼稚園の園長さんだった祖父」という小さい頃の記憶が大分修正された。

差出人名は夏目金之助  画像は一部加工


祖父

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by e-blog | 2008-05-31 21:30 | 夏目漱石

中田正輔

衆議院議員から後に佐世保の初代市長になった中田正輔の写真が一番数多くアルバムに載ている。早稲田政経学部の同期で、晩年、佐世保まで選挙応援に行くほど親交が厚く、選挙応援の際は地元紙に「童話家の応援弁士」と紹介されていることから 新聞記者としての活躍より児童文学者の一面が強かったのか。

卒業記念。中央 中田正輔 前列右 祖父。

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by e-blog | 2008-05-31 20:58 | 夏目漱石

永井荷風

 アルバムのなかの永井荷風の写真と別の場所に置いてあった一枚の絵葉書が突然、線で結ばれた。
 それは、絵葉書に「朝日の方に追われて」 「早く新聞をすまして新しいものを書きたい」と書かれていたことから「墨東奇談」が頭に浮かび、くずしたサインが荷風のものと気づいた時で、はがきは朝日新聞に「墨東奇談」を連載する前年の昭和11年と思われる。消印が11・2・7と読み取れなくもないが薄くてはっきりとしない。
文面からは、荷風が浅草で遊んでばかりいた訳ではなく、創作意欲を持っていたことが感じられる。



画像は一部加工

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by e-blog | 2007-10-06 22:32 | 夏目漱石

ちりめん本(縮緬本)

今では貴重品となった桃太郎のちりめん本。
ちりめん本は年が経つうちにどんどん柔らかくなると聞いたが我が家の桃太郎も綿を丸めたような優しい肌触りになっていて(実際は和紙)表紙はかなり黒ずんでしまったが本文には今でも綺麗な色刷りが残っている。
ネット上で「ちりめん本は夏目漱石の友人、弘文社の長谷川武次郎が出版、、、」という記述もみられたが作家と出版会社以上の個人的なつながりに触れたサイトは見つからなかった。

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by e-blog | 2007-10-06 21:24 | 夏目漱石

パスポート

英国、仏国、西班牙(スペイン)、葡萄牙(ポルトガル)、瑞西(スイス)、、、加奈太、北米合衆国のヨーロッパと北米の合計15カ国が記載された90年前の4ページ・B5サイズの旅券が残っている。
大正9年に日本郵船伏見丸で横浜を出港し、カナダ、アメリカを約四ヶ月旅行。この時の旅行カバンが今でも小さな我が家の押入れで幅を利かせている。木製の大きなカバンなので何度か整理しようと思ったがそのままに、、、


画像は一部加工

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by e-blog | 2007-09-24 16:10 | 夏目漱石

久留島武彦・木戸忠太郎

結婚式の写真に 左、日日新聞八〇米〇。右、久留島武〇。と書き加えられていたのでネットで検索。顔写真のあるサイトを見つけて10才年長の久留島武彦と確認することができた。氏の経歴を見て、文学の道でも幼稚園の経営でも祖父が同じ道を辿っていたことが分かる。名家の出身で後に日本のアンデルセンといわれるような活躍をした児童文学者だったので、大先輩として接していたのだろうか。結婚式の前後に久留島武彦が子供館で園児と共に写真に納まっていた。

前列 祖母、祖父。 後列左、日日新聞八〇米〇 右、久留島武彦
明治43年9月 大連。

久留島武彦、木戸忠太郎とのスナップ。服装から同じ時に写されたものか 名前の記入だけで撮影日は不明。

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by e-blog | 2007-09-02 19:02 | 夏目漱石

青山熊治画伯

青山熊治は、大正3年2月にシベリア鉄道経由でパリを目指し、8年後に帰国したが昭和2年発刊の中央美術にそのときの様子を「欧州放浪記」として残している。
「洋画を習ふものは、一度は西洋に行って、向ふで勉強しなければ駄目だ、ぐらひの心持で、漠然と欧州旅行を決心し、、、」という書き出しで。 最初の目的地大連では、満鉄の依頼で前年描いた「埠頭」の絵の代金千円を貰い、「ちょっと僕にとっては大金が懐に入ったのでこれだけあれば当分は大丈夫だらうと嬉しかった」と書かれている。同時に、祖父が大連で生活中、旅行途中の青山熊治に描いて貰った肖像画がかなり痛んでしまったが残っている。





青山熊治(27歳)大連にて。
岡山県朝木市生野町出身。第7回帝展特選受賞。帝展審査員。

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by e-blog | 2007-07-18 22:06 | 夏目漱石

満州へ

人物の特定が出来なかったアルバムの写真が少しずつ、、、
漱石の「満韓ところどころ」(明治42年10月執筆)に刺激されたかのように、その年の12月には漱石の弟子の森田草平、小宮豊隆らの送別を受けて渡満。児童文学者を目指すと共に大連で子供館という幼稚園を作る。

渡満送別会 前列左から松根豊次郎、野上臼川、森田草平、小宮豊隆。後方祖父。



子供館



子供館内部

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by e-blog | 2007-07-18 20:33 | 夏目漱石

夏目漱石の墓碑完成

長女の筆子さんや長男・純一さんの年格好から、墓碑の完成時か一回忌の大正6年か7年と思われるが、写真の裏には「夏目家のひとびと」の記入とそれぞれの名前があるだけで、何時写したものかは書き込まれていない。
あえて、「墓碑完成」とタイトルを付けたが詳細は不明。
ただ、写真の裏には祖父の名前が記入されているが右下に朝日新聞社の押し型が入っており、紙面を飾った可能性もある。



後記
自宅の本を整理していて、昭和45年番町書房出版「夏目漱石自筆全原稿 坊ちゃん」と同梱の別冊に大正5年と付記された写真が載っていた。12月9日に死亡し、28日の埋骨式の写真と思われる。

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by e-blog | 2005-10-27 23:38 | 夏目漱石

夏目家のお子達

ネットで調べた漱石の年譜を参考に祖父との重なりを一覧表にすることから開始。たったそれだけのことでも、夏目漱石を取り巻く輪の大きさ、次から次に出てくる著名な人物に圧倒される。
祖父との年代的な重なりは約30年。これといった繋がりは見つからないが、五女雛子さんが中央に写っている珍しい写真(明治44年)がアルバムに載っている。
(前列左から、栄子、伸六、雛子、純一、愛子さん)

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by e-blog | 2005-10-16 11:34 | 夏目漱石

一枚の年賀状。

 祖父の遺品のひとつに夏目金之助から届いた年賀状がある。
 漱石ほどの人であれば相当数の年賀状を出していて珍しいものではないかもしれないが、最近整理したアルバムには晩年の漱石やお子さん達の写真も載っていた。
 著名な作家と祖父の出会いがどんなものであったのか、ネットを活用してブログに記録を残しながら整理していきたい。

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by e-blog | 2005-10-06 17:26 | 夏目漱石

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